コラム

『坂の上の雲』から考える、地に足のついたキャリア形成論
~「今までの自分」から逃げない

ミドル・シニア世代のキャリアデザイン
https://www.ntthumanex.co.jp/service/career-design/

1.はじめに

「この企業で、あなたらしく自己実現をするにはどうしたらよいと思いますか?」

近年、人材不足や働き方の多様化など雇用環境が大きく変化する中、有能な人材を確保するために企業は試行錯誤をしています。そこでは給与や福利厚生といった物質的な観点だけでなく、いかに自己実現が出来るか、社員がやりがいをもって働けるかといった観点も重要視されています。

しかしながら、この「あなたらしく自己実現」という言葉に一定の難しさや「モヤっと感」を持たれる方が多いのも事実です。組織の中に属してどこまで個人の自己実現を追い求めるべきなのか?むしろ組織で活躍することも含めて自己実現なのではないか?「組織」に対して「個人」の比重が偏りすぎなのではないか?

今回は最近のキャリア論に対して、理念先行ではない形で考えてみたいと思います。

2.「フワフワした議論に巻き込まないでほしい」 ~東アジア的?キャリア観

最近、面白い話を聞きました。韓国に出張にいった人が、マネージャー陣を集めて「社員の皆がいかにリーダーシップを発揮できるか、オープンディスカッションをしよう」と問いかけたときのことです。韓国は日本と似ている部分も多く、アジア的な文化背景を持つ国ですが、ある韓国人女性マネージャーから、以下のようにバッサリと言われたそうです。

「ソウルではそういったオープンでフラットなリーダーシップという文化はあまりない。そういう議論があることは承知しているが、我われは我われで日々の業務をしっかり遂行しようとしている(trying to get things done)中で、フワフワしたこういう議論に時間を使いたくない」

その女性マネージャーは長く香港でも働いており、西洋的な文化についても理解したうえで発言しています。なんとなく「全員リーダーシップ」ということを唱えている当人にとっては、実に考えさせられる一言であったということでした。

人事部から下りてくる個人主義的な(西洋的)キャリア観も分かるものの、この韓国人マネージャーの意見もしっくりくる、という方も多いのではないでしょうか。東アジア的な文化背景においては、やはり組織や社会のなかでどう活躍すべきかという外在的要素が強いのも事実です。あなたらしいことは何か、あなたは何を実現したいのか。それぞれの社員がその価値観のもとで自己実現し、リーダーシップを発揮すれば、よりイノベーティブな組織になるのではないか―――。理念的には分かっても、どうにも本当に可能なのか、組織目標がある中で具体的にどうするのかよく分からないという方も多いでしょう。

この点に関して、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説に面白いシーンがあります。この小説は愛媛松山藩出身の秋山好古、真之、そして正岡子規という3人を主人公とした物語で、明治期(特に日露戦争前後)のダイナミックな日本を扱っています。以下の場面は、当時大学予備門(第一高等中学校、東京大学の予備機関)に通っていた秋山真之が自分の将来について(既に陸軍に入っていた)兄の好古に相談するシーン、まさにキャリア相談の場面です。少し見てみましょう。

「兄さん、うかがってもいいですか」
「なんだ」
「人間というものはどう生きれば」
よろしいのでしょう、と真之はおそるおそる、兄の心底をそんな質問でたたいてみた。人間はなぜ生きているのか。どう生きればよいのか。
「人間? いや、これは」
 好古は顔をなで、
「むずかしいことを言やがる」
 下唇を突きあげた。おらァな、いままでどう自分を世の中で自立させてゆくか、そのことだけで精いっぱいで、土の底の根もとのことまでは考えがおよばんじゃった。
「いまやっと自立し、齢も二十代の半ばを数年すぎ、そのことをときに考えることがある。が、おれの得た思案は、お前の参考にはならぬ」
「なぜです」
「わしは日本陸軍の騎兵中尉秋山好古という者で、ざんねんながらばく然とした人間ではない」
「ばく然とした人間とは?」
「たとえば、書生よ」
 書生の立場ならば、人間ということについての思案も根元まで掘り下げて考えることができるが、すでに社会に所属し、それも好古の場合陸軍将校として所属と身分が位置づけられてしまっている以上「人間はどうあるべきか」という普遍的問題は考えられず、「陸軍騎兵中尉秋山好古はどうあるべきか」ということ以外考えられない。
「そうだろう」
 と、好古は湯のみをとりあげた。

(司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』、下線部筆者)

この好古の指摘は重要です。私たちが「自己実現」を考えるとき、漠然としたのっぺらぼうの「自分」というものを考えるわけにはいかないからです。それは「○○株式会社の××」であり、「子ども2人を抱える母」であったり、すでに社会的な立ち位置があることが殆どでしょう。そしてそれらを選択してきたのもまぎれもない「自分」です。

企業が社会の中に存在し、組織的に動く必要がある以上、社員が自分本位に「自己実現」というわけにはいかないのは当然です。私たちが行うべきは、漠然とした「自分探し」ではなく、与えられた社会的役割と真正面から向きあい、その意味合いを考えること、そしてそこで自分の強みややりがいを感じられるのかを考えなければなりません。

3.Want toのキャリアに行くために ~Have doneの再発見

ところで、自己実現を促すコーチングの世界では「Have to」(やらねばならない)ではなく「Want to」(やりたい)に目を向けようという言い方をよくします。秋山好古にしても、もともと学校の教員になりたかったわけですが、家庭の事情もあって俸給のもらえる軍人の道を選んでいます(騎兵を選んだのも他の兵科より一年早く卒業でき、給金を受け取れるからでした)。そうして陸軍大将にまで昇りつめますが、退役後は故郷・松山に戻って高校の校長としてキャリアを終えるのです。

この秋山好古の例で言えば、明治の富国強兵政策であったり、家庭環境という背景の中で、好古は「Have to」のキャリアを選ばざるを得なかったといえるかもしれません。しかし、最終的にはやはり自分を見つめて「教員」という「Want to」へと回帰しました。もちろん、好古は与えられた環境の中でしっかりと自分を見つめ、今風の言い方をすればキャリア形成をしています。

「わしは日本陸軍の騎兵中尉秋山好古という者で、ざんねんながらばく然とした人間ではない」 という言い方は、青い鳥を探しに行くような無邪気な自分探しに対しては有効ですが、ともすれば「今与えられた環境のなかで努力をしていくのだ」と現状維持や「Have to」のキャリアになってしまうかもしれません。私たちが現実にしっかり立脚しながら、それでもなお「やりたいキャリア(Want to)」を見つけて可能性を広げるにはどうすればよいのでしょうか。

秋山真之は、当時の大学予備門を卒業すれば通常、役人か学者になることになります。しかし本人は自分は「第二等の官吏、第二等の学者」にしかなれない、と語ります。それでいいのだろうか、学問には根気が必要だが、自分にはそれがない。自分は要領が良すぎる、と自己分析し、自問自答するのです。

 かん(勘)が、真之にはかくべつに発達しているらしく、そのことは自分でも気づいている。
 (あしは、軍人になるほうが)
 と、ひそかにおもったりした。
 学者になるにはむかない。学問は根気とつみかさねであり、それだけで十分に学者になれる。一世紀に何人という天才的学者だけが、根気とつみかさねの上にするどい直感力をもち、巨大な仮説を設定してそれを裏付けする。真之は学問をするかぎりはそういう学者になりたかったが、しかし金がない。学問をするには右の条件のほかに金が要るのである。
 「なるほど、要領がいいのか」
 好古は、真之の自己分析をまじめにきいてやった。そのあと「学問には痴(こ)けの一念のようなねばりが必要だが、要領のいい者はそれができない」といった。が、かといって好古はこの弟のことを、単に要領がいい男とはみていない。思慮が深いくせに頭の回転が早いという、およそ相反する性能が同一人物のなかで同居している。そのうえ体の中をどう屈折してとびだしてくるのか、ふしぎな直感力があることを知っていた。
 (軍人にいい)
 と、好古はおもった。

こうして、兄の好古に「軍人になるか」と言われ、真之は海軍兵学校に入ることになります。直感力のある稀有な学者になることも夢見るものの、金銭面からそれは難しい。それでは他に自分の良さを活かせる場所はどこか、兄の好古が軍人であったこともあり、自分も軍人という道があるのではないかと考えていったのでしょう。重要なことは、単に自分はどう生きたいのかを夢想するというのではなく、過去からの自分を省みて、その上で自分の強みである直感力をどう活かすか、具体的に考えているということです。

この話の私たちへの示唆は何でしょうか。


いきなり「何がしたいのか」「好きなキャリアを描け」といわれても、私たちは急にWant toを描くことはできません。キャリア形成について、私たちは白紙に絵を描くわけではなく、今まで描いてきたキャンパスに色を追加していくことだからです。その過去を否定することなく、しっかり受け止め、そこに自分の強みや活かしたいもの(真之でいうところの「直感力」)を見いだしていくこと。従って、Want toのキャリアを見いだすためには、まず自分が今まで何をやってきたか(Have done)を棚卸ししてみる必要があるのです。

例えば、今まで自分は何が得意だったのか、小さい頃から続いていることは何か、好きなことは何だったか、書き出してみることです。自分史の作成ということもよいでしょう。多くの場合、その人らしさは「得意なこと」のなかに見いだせるもので、本人は普通のことと思っていても周りから見れば驚くべきレベルということもよくあります。例えば「毎週ジムに行くよ」という人がそのことを普通だと思っていたとしても、全国民の中で「毎週ジムに通っている」人口がどの程度かを想像すれば、その独特さに気が付くことでしょう。誰しもそういった特殊性を持っているはずで、それがその人らしさを再発見するきっかけとなります。子ども時代に夢中になったことは何か、自分は今の仕事を何故選んだのか(そして別の仕事を何故選ばなかったのか)、どういうときにやりがいを感じたのか、そういった過去から現在にかけての自分を丁寧に棚卸しすることで、改めて自分は何がしたいのか(Want to)が見えやすくなるでしょう。

4.実際に行動に移すには ~計画的偶発性の第一歩として

キャリア論においては、計画的偶発性と呼ばれる議論があります。

この理論によれば、幸せなキャリアを築いている人々について、それらのキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定されていることが判明しているということです。彼ら・彼女らは事前に計画してキャリア形成したというよりも、偶然のめぐりあわせによって「たまたま」そのキャリアを歩むことになったというのです。しかし、このことは不思議なことではありません。たまたま希望していない部署に行ったら視野が大きく広がった、であるとか、パートナーの転勤で会社を辞めることになったが、それが結果的に今の職場との出会いにつながった、など様々でしょう。

それもあって、変化の激しい時代においては「良い偶然を生み出すような行動を計画せよ」といわれるようになります。例えば社内公募で留学に行って、そこで良い出会いが「偶然」起こったとしても、それは社内公募に手を挙げたからであって、そのこと自体は計画できるということです。

では、どんな行動を計画すればよいのでしょうか。異業種交流会に行けばよいのか、関係ない部署への異動を希望すればよいのか?計画的偶発性理論は、よい偶然をどう起こせばよいかまでは教えてくれません。

ここにおいてもまた、改めて自分の過去(Have done)を振り返ってみることがきっかけとなるでしょう。趣味だったサッカーをまた始めてみようかな、フットサルチームに入ってみようかな、小さいころに絵を描くことが好きだったから、イラストを描いてインスタグラムにあげてみようかな、など自分自身の過去を改めて見直すことが自分らしい第一歩につながるでしょう。いきなり「キャリア形成のための行動を起こす」というよりも、より自然体で新しい行動を起こすことができるはずです。

繰り返しですが、私たちはのっぺらぼうの白紙の人間ではなく、過去実際に生きてきた人生というものがあり、そこで培った関係性やつながりがあるものです。人とのつながり、モノとのつながり、場所とのつながり、書物とのつながり、様々な積み重ねの中で自分というものは規定され、そして未来への飛躍もそこから始まるはずです。漠然とした「私はどうしたいのかな」ではなく、「今まで○○してきて、そして今××している私」と真剣に向きあうことが、地に足のついたキャリア形成に繋がっていくでしょう。

5.おわりに

西洋的なリーダーシップ論やキャリア論が巷に溢れる中、

「わしは日本陸軍の騎兵中尉秋山好古という者で、ざんねんながらばく然とした人間ではない」

という秋山好古の言葉は朦朧とした視界を切り拓く一筋の剣になるかもしれません。私たちの多くは関係性の中で生きており、幸せもその中に存在します。

一方で現状の中に閉じてしまっても発展性はありません。人事部が全てを決めてくれる時代でない以上、私たちは過去・現在の自分と向き合い、その上で未来のキャリアを作り上げていく必要があります。シンプルに自分の行動原理を捉え、今のキャリアに埋没することなく新しいキャリアへの挑戦へつなげていきたいものです。

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